【日記】ヤモリのつとめ

家守

家を守ると書いてヤモリと読むのです。
はたして、今の自分にヤモリを名乗る資格はあるのでしょうか。

数年前より、祖父母の住んでいた家の留守を預かっています。
それによって些少の生活費も援助してもらっているわけです。
個人的にも思い入れのある家なので、むしろ進んで管理を引き受けました。

とある地方の、とある小さな駅前にある物件。
住宅が1件と、その隣に1棟の店舗があります。

店舗の部屋は5つ。
店子さんは2件。
他は今、空き部屋です。

そのうちのひとつで、かつて祖父母は飲食店を営んでいました。
その前には、祖父は大工でした。
戦後まもないころだったためか、そこそこ儲かったようで、
当時はまだまだ盛況だった駅前の一等地に大きな土地を買って、
家を建てて、店舗を建てて、
そこで母は育ちました。

記憶の中にある祖父は大きな太鼓腹に、ティラミスのようなオールバック、厳しい顔をしているのに一度も声を荒げて怒っているのを見たことがない、優しいひとでした。
しかし、聞く話によると、若かりし頃の祖父はなかなかの遊び人だったようです。
そんな祖父の楽しみのうち、食道楽が高じて、自分で建てた店舗に自分で店を構えるに至ったようでした。

孫である僕らは、夏休みなどの長期休みに、祖父母の家まで遊びに行きました。

店内の常連さんたちとおしゃべりをしたり、
スツールに腰掛けてアイスを食べたり、
漫画コーナーから高橋留美子先生の『らんま1/2』を引っ張り出して読んだり。

カウンターにはガス式のサイフォンがあって、
これで祖父や祖母がコーヒーを淹れるのを、ひがな一日眺めていることもありました。

浮かんでは消える、数々の思い出は、今の僕を構成する大切な一部です。

店は、祖父が癌で体調を崩した頃に、畳んでしまいました。
その後、同室を2度ほど人に貸したそうでで、今はもう、かつての面影はありません。

祖父が他界した後、テナントの管理は祖母が引き継ぎました。
手放してしまうこともなく、あの家で祖母もまた、悠々自適に暮らしたようでした。
ほっそりとした優しい面立ちで、女性らしいしなやかさと、したたかさを併せ持った人でした。

その祖母もまた、癌でこの世を去りました。
祖母のお見舞いに何度も通った、あの病院の、あの病室に。
もう祖母の姿はないということが、時折、無性に不思議な心持ちになります。

いつかまた、この店舗で、あの日のような何かをしたい。
そう夢想して、ひとりで大工の真似事をした日もありました。
それも今は、中途半端なままです。

日々、生きることにもあえぐ僕は、ヤモリの真似事すら満足にできないのです。

通勤

いつもより少し早めの帰り道。
地下鉄の駅で、めずらしく退勤のピークと重なりました。

スーツに身を包み電車に乗り込む人々。
その中にひとり、私服にボストンバッグを下げて紛れ込みます。

週に5日。
朝から夜までの約8時間の勤務。
昔は当たり前のようにあったそれが、今思えば、なんて尊いことなのか。

当たり前なんかじゃない。
できて当然なんかじゃない。

日に8時間、朝から夕まで、自らの肉体と意識を仕事の前に貼り付ける。
その約束事を守り通して、自らと、あるいは誰かの日々を支えるべく、勤める。

当たり前なんかじゃない。
とても尊いこと。

僕は今、それをいちからやり直しているのです。
今度は他の誰でもない、自分自身への約束事として。

今はまだ、ヤモリの真似事でしかないけれど。